「謝恩フリーきっぷ」
今日3月31日は、今年度最後の日だ。
会社に勤め始めた今でこそ年度末はバタバタと忙しいが、学生の間は春休みの間の一日に過ぎなかった。
そんな私が初めて年度末という日を意識したのが、22年前の今日だった。
1987年3月31日、国鉄最後の日。
翌日からJRになるという、その日限り有効のきっぷ、「謝恩フリーきっぷ」というものが発売された。
私は高校1年から2年になるところだった。
長期は無理だが、1泊ぐらいなら一人旅するのも差しさわりないという、微妙な年齢。
金額は6,000円。消費税などない時代。
当時の最寄りの国鉄の駅に買いに行くと、窓口に並んではいたが買えないということはなかった。
筒になったおまけがついており、それは大判の国鉄路線図だった。
この謝恩フリーきっぷ、上記Wikipediaのリンク先にも書いてあるが、
「全国の国鉄の新幹線、鉄道航路を含む全線の特急、急行を含めたすべての列車の自由席が利用可能で、4月1日の0時を越えて走る列車については、途中下車しない限りその列車の終着駅まで有効」
というきっぷだった。
それを踏まえて、時刻表を見ながらなるべく有効に回れる計画を立てた。
3月31日、東京駅6時発の博多行き「ひかり」に乗った。
東京駅の新幹線ホームは、少しでも遠くまで旅をしたい人でごった返していた。
自由席はもちろん長蛇の列だったので、私は最初から食堂車に並んだ。
その当時は新幹線にも食堂車が連結されており、しかも当時は新鋭だった100系新幹線の食堂車は2階建ての上階だったのだ。
列の前から2番目だったので余裕で座れ、そこで1時間半近く粘り、あとはデッキに立って流れる車窓を眺めていた。
食堂へ登る階段の茶色い壁面にはエッチングが施され、いろいろな車両が描かれていたのを覚えている。
2時間半ほど乗車し、京都駅に到着。
ここから先は、私にとって未知の路線だった。
今ではすべて電化された路線となっているそうだが、当時は非電化、つまりディーゼルカーが走っていた。
ディーゼルカーに乗ること自体、私にとっては貴重な体験だった。
山陰本線の普通列車に乗って綾部駅へ。
地図や写真でしか見たことのなかった「保津峡」というところは、こういうところなんだ…と感慨無量だった。
窓を開けて外を見ていると、地元の人とおぼしきおばさんに「寒いから窓閉めてもらえます?」と言われたことを思い出す。
綾部駅からは舞鶴線に乗り換えて西舞鶴駅へ。
続いて宮津線(現・北近畿タンゴ鉄道宮津線)に乗って天橋立駅で降りた。
高台にある展望台から、生まれて初めて天橋立を見た。
西舞鶴まで戻り、小浜線に乗る。
次の東舞鶴からは、地元の人が大勢乗ってきた。
そして1駅1駅、少しずつ降りていった。
20年近く後に語呂あわせで有名になるとは思いもよらなかった小浜を通り過ぎ、三方五湖も望めたような記憶がある。
ディーゼルカーの車窓を流れる、夕暮れで黄金色に輝く、しかし何の変哲もない「田舎の風景」が、16歳の私にとってはとても新鮮なものだった。
敦賀駅に到着。
ここからは久々に電化区間、しかも特急に乗った。
北陸本線の「加越11号」金沢行き。
列車名だけでなく"11号"まで覚えているということは、やはり当時の私にとってかなりのインパクトがあったのだろう。
時刻は18時近くて、すでにあたりはうす暗く、敦賀駅のホームは吹きっさらしで寂しかった。
京都からここまでの普通列車同様、車内は比較的空いていて、加越11号は米原始発で敦賀は途中駅なのに自由席に楽々座れた。
車窓からは何も見えなくなり、時刻表を読んだりして過ごした。
19時半ごろだったと思う、終点の金沢駅に近づくと、降りる準備をする人で車内が騒がしくなってきた。
列車がホームに進入すると、なんと数え切れないぐらいの人々がホームを埋め尽くしているのが車内から見えた。
そのほとんどが、金沢発上野行きの夜行急行「能登」を待つ人たちだったのだ。
前述のとおり、4月1日にまたがって運転する列車には、途中下車しない限り終着駅まで乗れる。
それをあてにした人たちが、金沢駅で「能登」の発車時刻の数時間前から待っていたのだ。
私も余裕を持って金沢駅に着いたつもりだったが、予想をはるかに超えていた。
もし「能登」に乗れなかったら、予定通り東京に帰れない…きっぷの有効期限も切れてしまうし、改めて東京までのきっぷを買う持ち合わせもない。
高校生だった私は銀行や郵便局の口座も持っておらず、ゆえに親に振り込んでもらうこともできない。
どうしよう…なんとかして乗らないと…
1時間ほどしてからだろうか、駅の放送があった。
上野行きの臨時急行「能登82号」を急遽増発するという。
その放送を聞いた人の列が動き、私は幸いにしていいポジションを取れたので、窓側の座席に座ることができた。
この旅一番のクライマックス(?)を乗り越え、なにしろ一安心。
当時、定期「能登」は客車だったと思うが、臨時「能登82号」は電車だった。
22時半ごろ、金沢駅を出発。
臨時列車だけあって走行スピードは遅く、途中駅にもちょくちょく停まる。
そして富山県の魚津駅停車中に、4月1日0時になった。
明かりのついたホームの時計の針が、長短とも真上を向いていた。
車内のどこからともなく「JRおめでとうー」という歓声が聞こえた。
直江津で方向転換をし、信越本線に入ったあたりまでは起きていたが、あとは眠ってしまった。
軽井沢から横川への碓氷峠越えは私自身初めてで、楽しみにしていたのだが。
目が覚めたときには、大宮の一つ北、高崎線の宮原駅で運転停車(客の乗降がない停車)をしていた。
つまり、朝の通勤時間帯だけあって定期の通勤列車に道を譲っていたのだ。
何本も行き交う115系電車に、白い「JR」のロゴがプリントされていた。
今では見慣れたものだが、初めて見て「ああ、JRかあ、もうJNRじゃないんだ…」と思った。
上野駅では15番線に到着したと記憶しているが、駅の構内放送で「ただいま到着の列車は団体臨時列車です、ご乗車にはなれません」と言っているのが聞こえた。
いつの間にか「能登82号」から「団体臨時列車」に変わっていたのだった。
後年、私の会社の元上司に聞いたら、その国鉄→JRの日には会社を休みたかったが月末(年度末)の締めで休めなかった、一生のうち一度あるかないかの機会だったのに、と嘆いていた。
今考えると、私も学生の身分だったからこそ行けたのかもしれない。
まあ、私も含めて月末だ期末だといっては休めない会社に入ったのが悪いのだな。
しかし、最近鉄道の旅をしてないなあ…たまにはしたいなあ。
只見線か米坂線あたりにでも行ってみたいものだ。
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